シャワー浴びていてちょっと血の巡りが変わったのかふと思い至った。
私がいろんなTCGに対して思っていることと現状の動きについて思っていることの関連性が
宗教に対するスタンスのそれと合致している部分が多くみられるということ。
きちんと論文にするわけではないし、それでだから何というつもりはない。
おまけに細かいところの精査もしていない。
ということで大まかに合致する点を挙げてみる。
1教義がある=ゲームシステムがある
2協議を軸とした宗派がある=ゲームシステムを中心とした運営およびユーザーが存在する。
3教義間や宗派間の対立が存在する。=ユーザー間の対立、ゲーム同士の対立がある。
4お布施をすることでその宗派を維持する=ゲームを買うことでそのTCGを続けることができる。
とかまあ、他にもいろいろ書きようがあるけどテキトーなんだけどね。
と言いながら実は私は
おそらく今の日本は多宗教であるがゆえにいろんなTCGがあることを許容しているのではないかとか思っていたりもする。
ここから以降私個人の感覚になるのですが
つまり教義(ゲームシステム)そのものに罪はないと思っていること。
教義は研鑽を重ねることで姿を変えることがある。これはゲームシステムが運営を続けることにより新しいギミックなどにより姿を変えることと同じに考えている。
最初は「なんじゃこの教義は?」と思っていたけど話を聞いていいると「ああ、まあそうかも」とか思えてしまううえに、ずっとやっていくうちにいろんな解釈が加わっていつの間にか素晴らしい競技になっていたりする感じがまるで遊戯王のようではないかと。
その逆に最初は良い教義と見ていたのに信者や教団がおかしな解釈をし始めておかしな集団になってしまうこともあったりする。
なんか宗教だよなあーと思った次第。
なので、
ショップはある意味神社の神主であり寺の僧侶であり、教会の牧師でもありという感じ。そしてけっしてそのトップではない。
私はそれにあたるのかもしれない。
こと、TCGにおいて人は狂乱もする。
それを制し、きちんと上層部に報告するのもショップの役目であり、新規のユーザー(信者)を確保するのもショップの役割ということも宗教的に感じてしまう。
もちろんインフラを整えることが重要という部分においては国家や自治体にも似ていることもないこともないけど
日本の場合どちらかというと「仏教の寺」に近いのが「TCGショップ」ということになるのではないかと。
小学生ユーザーにマナーを教えたりすることも重要とか私もいうけどそれって寺子屋とかの感覚にちかいかもしれないし。
ということを思ってたわけですよ。
もう遅いのでテキトーこいてますが。
またいつか気が向いたら修正とか加えていこうと思います。
昔のいわゆる寺社の立ち位置と今のTCGショップの立ち位置
結構面白い対比と思っております。
誰かこれで研究論文書いてみては?(笑
登録タグ: 雑記
テーマ:私的見解 | 投稿日時:2017/05/31 03:41 | |
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