ツイッターでもそうなんだけど
自分がやっているゲームに「愛情」を持って「クソゲー」という人がいるのはまあありだと思う。
ただ、そのゲームがきらいになって「こんなクソゲー」というのも気持ちは分からないでもない。
でも、クソゲーということで何の得があるの?
ツイッターのTLでふたつのゲーム(全く接点が無い)に対して
「クソゲー」と書かれているのをみたけど、
その両方って普通に遊ぶ分には面白いんだよね。
ではその人は何の根拠をもってクソゲーというのかと考えてみた。
クソゲーというのはどんなもの?
例えば限定ジャンケンはクソゲーか?
どう考えても分の悪い勝負をしているのは分かるけど
どう考えてもクソゲー。
でも見る部分と考える部分が変わるだけですごい面白いゲームにもなる。
やっている本人は「クソゲー!クソゲー!クソゲー!クソゲー!」と思っているだろう。
漫画や映画をを見ているほうは「こんなに面白いゲームは無い」と思っている。
見せ方、見方、感情移入の仕方でこれほど変わるゲームは無いだろう。
例えばTCGにしても、
何も知識の無い状態である
「1エキスパンションだけ」で遊ぶと
神のように面白かったりする場合もあるし、
逆に「何だこのカード?」というようなものが発生して
「クソゲー」とか言う風に思うこともあるだろう。
その人の熟練度にも依存する部分だって大きい。
トランプにしてもそうで
トランプのゲームにだって「戦争」と「セブンブリッジ」とでは
その熟練度によってどこまでの人が面白いと思うのだろうか。
老若男女がトランプゲームをするタイミングあったとして
「ババ抜きが選択される可能性の高さ」というのはそういうことだと思う。
ルールが簡単
熟練度があれば戦略も練ることができる
運要素が大きく
相手の実力に応じることもできる
結局一つのエッセンスで極端にゲームは変わる。
コミュニケーションゲームとして面白かったり
頭脳ゲームとして面白かったり
それはさまざまである。
つまり、クソゲーというのは存在しないし
もしそれが存在するというのならば
「一方向でモノを見ていない状況に居る」
というのではないかと。
ただ単に
「ルールがおかしい」
「壊れたカードが存在する」
「制限が厳しい」
というのはゲームとしては普通にありえる話で
完全なゲームは存在し得ない。
あるとするなら囲碁のようなものになるだろうと思う。
私は囲碁について詳しくないが
そういえば囲碁を「クソゲーだ」という人を見たことないな(苦笑
運要素を多めにゲームに組み込むとどうしても「クソゲー」が成り立つのではないかと。
そのゲームをクソゲーというのならば
「だったら囲碁でもやっていればいい」という話を聞いたことがある。
まさにそのとおり。
でもクソゲーと連呼する人ほど囲碁とかやっている気配が無いんだ(苦笑
ちなみにアナログゲーム界隈で
遊宝洞の「伝説のかけら」はクソゲーとよく言われるけど
すごく面白いよ?
あとキャットアンドチョコレートも人狼もシステムを見るとクソゲーに見えるが実際やってみると面白い。
結局声の大きいというか影響力の大きさというのが
評価を下しているんだろう。
でもいろんな楽しむ方向性があるのだから
それを「つまらない、くだらない、クソゲー」などと貶めるのは違うことじゃないのだろうか。
少なくとも私はTCGのゲーム性とゲームの存在そのものを否定した覚えは無いが
否定する人はそれで何を得るのだろう。
そんな事を思った。
私の場合、メーカーがユーザーをバカにした状況には全力で否定するだけです。
登録タグ: 雑記
テーマ:日記 | 投稿日時:2014/12/30 15:43 | |
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