国内TCGにいちゃもん

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【D-0】能力を得ると「テキストのないユニット」ではなくなってしまう裁定(2)

 前回のエントリの続き。
 今回は表題の裁定に対し、改訂の妥当性を説くという内容になっている。前エントリを見てない人も、これさえ分かってればきっとだいたいの雰囲気はつかめるよ。

 2010/04/06追記:ちょっとだけ書き直して見やすくしようとした。



改訂による3つのメリット


 エントリが長大化してきたので、もうさっくりと改訂によって得られる3つのメリットを提示させてもらうと:

 1.プレイアビリティの向上
 2.デザイン余地の拡充
 3.プレイヤーが得られる「ゲーム実現満足度」の向上

 「後天的能力付与はテキストに含めない」と改訂することでどのようなメリットが生まれるのか。これらの詳細な解説を以下に加えていく。


■ 1.プレイアビリティの向上
 どういうことかというと、要するに、プレイヤーは実カードを見るだけでシナジーが有効であるかどうかを「2値判定」できるようになるということだ。
 つまり実カードの文章欄を見て、「空白ならばON、そうでなければOFF」とシンプルかつ直感的なチェックが可能になる。現行案では他のカードとの相互作用を常に意識しなければならない。見逃してしまった状況によっては「巻き戻し」では取り返しがつかない状態になることも珍しくない。これがプレイヤーのメモリを圧迫するストレッサとなる。

 ディメンション・ゼロはプレイヤーの思考負担が(囲碁将棋のように)大きいTCGである。
 そういった複雑なプレイング判断の妨げとならないよう、カード間の相互作用は視認性・一覧性により良く参照できるほうが望ましい。
 たとえば盤上には自分の《ボンガ・ボンガ》と《制圧戦鬼煉獄丸》と《月明かりの曲刀の乙女》という状況下。この場合プレイヤーは「相手はどうクイックしてくるか」「どうプレイするのがベストか」より先に「位置により移り変わるパワーの遷移」を頭に入れなければならない。それがプレイング判断のための容量を圧迫する。

 大前提として、「今コイツのパワーいくらだっけ」確認というのは、ゲーム中少なければ少ないほどよい。少なければ少ないほどプレイヤーは自身のプレイングだけに集中できるということだ。
 よって、相互作用確認の手間を取り除き「シンプルな2値判定」に落とし込める点で、この変更は有意義であると考える。


■ 2.デザイン余地の拡充
 このメリットこそ一番シンプルで分かりやすい。
 つまりこの改訂が成立すれば、開発側は
 「テキストのないあなたのユニットは『キーワード能力(加速,召集,閃光,etc...)』を持つ」
 というようなカード群が単純にデザイン可能になるというわけだ。
 特に進撃には《イビルアイ・クライマー》などの参照カードが存在するため、現行案でテキストを代行することはほぼ不可能と見ている。
 これについては特にこれ以上仔細を述べるつもりはない。だいたいの方がそのメリットを理解してくれるのではないかと思う。



■ 3.プレイヤーが得られる「戦術実現」の満足度向上
 このタイトルだと何を指しているのか掴みにくいと思う。
 コレに関しては前章で引用した2chレス「能力付与カードによるシナジー失効は、バニラメタとして機能できるのでは」が前提となっている。
 一見メリットのように見えるが、違う。コレはデメリットも孕んでいる。

 自分が考えたシナジーを「完封」されると、プレイヤーは「こんなに簡単に対処されると、ビルディングの苦労に見合わない」と構築の楽しみをスポイルされた気分になる。ここまでは当たり前のことだが、それは「専用メタカード」ではなく(メタ意識しなくてもデッキに入りうる)汎用性の高いカード「副次的に」「ついでに」対処された場合に、特に理不尽感が強まるということだ。

 1ユーザに過ぎない自分が「満足度」という統計的・主観的な評価軸を引き合いに出しても説得力に欠けるだろうから、少し実例を出す。
 「《ザルファーの魔術師、テフェリー》と待機デッキの関係性」直近だとこれが該当するので、経験のあるプレイヤーはこれを連想してほしい。


 (※《テフェリー》は相手のソーサリータイミング以外のプレイを禁止する。待機能力はこれに引っかかるため、相手が《テフェリー》を持っていれば、その能力、コンセプトは完全に破壊されてしまう。せっかく公式にフィーチャーされた時間カウンター操作型待機デッキを組み上げても、環境に《テフェリー》がいる間は、プレイヤーは「ハンデ戦」になることを自ら覚悟して大会に臨まなければならなかった)


 実際にジョイラ系待機デッキを組んでFNMなんかに挑んだプレイヤーなら、当時の青系デッキと当たったときに受ける「理不尽さ」のようなものに共感してもらえるのではないかと思う。2chでも「なぜ待機と《テフェリー》を同じセットに収録したのか」そういう不満を何度も見ることができた。

 緑ビートに対する《非業の死》や発掘に対する《トーモッド》よりも「ジョイラ(待機)に対する《テフェリー》」により多くのストレスを感じてしまうのは、前者がそもそもメインボードに入らないということ、また専用メタカードにより完封された場合ならば対戦相手の(メイン/サイドに専用対策カードのスロットを割くという)「メタ読み」手腕を評価することで自分の敗北を肯定的に認められるが、後者だと相手の「タナボタ感」、理不尽さをどうしても感じてしまい、転嫁が難しいからだと思う。


 例示が長くなったが、「バニラに対する能力付与での無効化」がまさしく「待機に対するテフェリー」の図にそっくり当てはまるということだ。むしろこの場合、こちらの方がより厳しい位置にあると言える。《テフェリー》はカードパワーまで含めて見れば存在がオンリーワンに近い。だが「能力付与」は汎用的なために未来のあらゆるセットに収録される普遍性を孕んでいるからだ。これだけ範囲が広ければ、《シャドー・ソウル》のような「投入必須のパワーカード」が再びデザインされる可能性は決して低くないだろう。

 汎用的なカードで「メタ的な対処」が可能になるというのは、プレイングの観点から見れば確かに深みが増す面白い要素ではある。だがその深みの根本は相手への「妨害」から発生しているということを認識しなければならない。これはNACが嫌う「パーミッション的面白さ」と同じ構造だ。
 プレイングの幅というのは、自分の行動を実現するという「能動的戦術」に対してより多く与えられるべきだ。相手を妨害する戦術に対し、それより多くの「プレイングの幅」が与えられるようなことは、あってはならない。

 これら2つの観点から、改訂はプレイヤーの「ゲーム中満足度」を高めるメリットがあると考える。



改訂によるデメリットについて


 改訂によるデメリットについてだが、自分はそこまで深く論考していない。「逆転裁定」を出さねばならないぐらいだろうとかなり楽観的に考えている。
 もしも強烈な問題などあれば、ぜひコメント欄に寄せていただければと思う。真の酔っ払いは自分が酔っていることに気づかないのである。冷や水をぶっかけて目を覚まさせてくれればこれ以上恥を晒さずに済む。
 
 それはさておき、「能力付与によるメタ的対処」が実効不能になるという問題については、上にも書いた「妨害的戦術」を評価すべきでないということを抜きにしても、自分はそれほど深刻に見ていない。なぜなら、バニラは構造的に弱いからである。

■ EX.そもそもバニラは構造的に弱い
 バニラは、いかにサポートするカードが増えても、シナジーを受信するだけの存在から抜け出せないことを留意しなければない。バニラは、どれほどサポーターが増えても、「自分自身ではシナジーを発信できない」のである。
 「デメリット持ち」のほうがシナジー発信者に転嫁できる分「バニラより圧倒的に強い」ということに注意しなければならない。「《ボンガ・ボンガ・ボンガ》系とエネルギーゾーン効果」について考えてみればよい。デメリット持ちはシナジーによって「メリット持ち+コストパフォーマンス優秀カード」に変性できる。バニラにはそれが永遠にできない。

 シナジーを発信できないということは「(パワーデッキの要件とされる)格子状のシナジーを形成できない」ということだ。あくまでデッキ内の他カードから発信されるシナジーを受け取ることしかできない。デッキの安定性が構造的に他のデッキよりも低くなってしまうということになる。それはバニラから事故の可能性を消し去ることは永遠にできないことを意味する。
 どういうことか? つまり、バニラデッキを組むには「バニラ」と「バニラ支援カード」を適当なバランスで投入しなければならないが、ここで「バニラしか引かない」可能性が絶対に存在するということだ。他のデッキ、たとえばドラゴンデッキなら「ドラゴン支援カードをサーチするドラゴン」というカードは存在しうるし、もっと言えば「ドラゴンを支援するカード自身がドラゴン」ということもありうる。それが格子状のシナジーを形成し、デッキの安定性につながる。
 だが「バニラを支援する能力を持つカードがバニラ」ということ絶対にありえないのだ。それが「バニラしか引かない」という事故要素をデッキから取り除くことを不可能にしている。
 デッキの安定性は、長丁場を戦い抜くトーナメント環境ではもっとも大事な要素だ。バニラはそれへの潜在的なハンデを負っている。だから「バニラは構造的に弱い」。そう自分は感じている。



っていうか現行の総合ルールで


 最後に現行ルールについても触れておきたい。だが特に対したことは書いていないので長すぎ疲れた目がシパシパするという方は次章のまとめに飛んでしまっても何ら問題はない。


 現行の総合ルール16.03では、「テキスト」はこのように定義されている:


第二部第10章3項「1. テキストは、イラストの下の文章欄の上部に記されています。テキストは、そのカードの能力を定義します」



 「テキストは文章欄上部に記されている」「そのカードが持つ能力をテキストが表している」 ことが分かる。


 一方能力はどう定義されているかというと:


5.「能力」とは、スタック上にある起動型能力および誘発型能力を指します。また、カードに書かれているテキストも「能力」と呼びます。



 前者は要するに《もみ消し》の話であるのでここは無視する。問題は後者にある。
 ここには「テキスト=(イコール)能力」である、と書いてある。つまり、文章中の「テキスト」は「能力」と読み替えても問題がないということになる。

 テキストの視点から見れば、テキスト=能力を定義するもの と書いている。MtGのCRに当てはめるなら、「ルール文章」の立ち位置になるだろう。
 だが能力の視点から見れば、能力=テキストそのものと書いてある。これを当てはめると「能力は、そのカードの能力を定義します」となってしまう。これは明らかに無効な記述ではないか。「ルールブック」は基本的に「ルールはなにか」を定めるものであって、「ルールブックとはなにか」を定めるものではないだろう(イヤ、もちろん「ルールブックのルールブック」なんてものがあるのならそれはそうだろうが、それは例外で……こういうたとえ話はアホがすべきではないな)


 つまりどういうことを言いたいのかというと、総合ルール上でも定義にブレがあるのではないかということですよ!


たとえば、これ:


【例】プレイされてスクエアに置かれるユニットは、通常フリーズ状態でスクエアに置かれます。しかし、「速攻」という能力がテキストに書かれたユニットは、その能力がルールよりも優先され、リリース状態で置かれます。



 「『速攻』という能力がテキストに書かれたユニットは」というのは、明らかに「テキストも能力と呼ぶ」の定義に沿わないだろう。「速攻能力が能力に書かれた」って、つまりどういうことになるんだ? ここでは、「テキスト」は「ルール文章欄」のような用法で使われているように見える。

 ほかにも探せば定義のブレは見つかりそうな気がするが、目がシパシパしてきたので途中で挫折している。目がシパシパしない人にこの先は任せたい。






まとめるよ


まとめるよ!

■ いいたいこと
  1.「効果で能力を(後天的に)与えられると『テキストのないユニット』でなくなってしまう裁定」を撤廃し、「能力」と「テキスト」を分けるルールに改訂してほしい。
  2.「プレイアビリティ」「デザイン余地」「ゲーム満足度」向上、「バニラの構造的弱点」、それから2chで出た「多様性」「実用性」をこれの論拠とする。
  おわり。



■ 逆転裁定ダメなら……
 最後の最後に予防線張っちゃう! 逆転裁定が色々な問題で難しいなら、おいらはこういう処置を代替案として挙げます:

 今後ふたたび「バニラ支援カード」を登場させる場合、対象条件を「元々のテキストを持たないユニットは…」と書き換える。

 これは上項のメリットを確保しつつ、現行表記が孕む「誤読性」を解消するものである(前回のエントリを参照のこと)。
 おわり。


■ 最後まで読んでくれた方は
 ありがとうございました。

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テーマ:日記投稿日時:2010/03/29 18:34
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